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柳宗悦と大地窯の器
 うだるような暑さが続きます。皆様いかがお過ごしでしょうか。
Blogも長らくお休みしておりましたが、器について考える機会があり、この場に載せさせ
ていただきます。
 ついこの間、柳宗悦についての話を耳にする機会がありました。柳宗悦は大正時代に
民具や雑器といった日用品に美を見いだし、民藝運動という文化活動をおこした人物で
す。私がなぜこの話に興味を抱いたかといえば、柳宗悦の美の思想を聞けば聞くほど、
ヴェロニカさんの器に対する考えに結び付いてくるからでした。
 この話を聞いたあとヴェロニカさんに電話する機会があり、思い切って「柳宗悦のことは
ご存知ですか?」と尋ねてみました。するとヴェロニカさんは「もちろん知っている。とても
大切な人。」とおっしゃっていました。
ヴェロニカさんが日本へやってきたのは1980年で野口整体の研究のため来日したといい
ます。ヴェロニカさんが日本にやってきて最初に住んだのは東京の本郷でした。ここには
柳宗悦が設立した日本民藝館があり、月に一度はみにいっていたといいます。そんな中、
柳宗悦の本を読み目が覚めたとおっしゃっていました。ヴェロニカさんは三年後1983年
にフルート奏者としてこの日本民藝館最後の演奏会を行い、そのとき展示されていた柳
宗悦と関わりの深い棟方志功の板画に感動し書の世界へ入り、その後現在の陶芸へ至
ったとのことでした。柳宗悦との出会いは現在のヴェロニカさんを方向づける大きな意味
ある出会いであったと思います。
 では柳宗悦の言う美とはどのようなものなのでしょうか。生活雑器である井戸茶碗につ
いて、『茶と美』のなかの「「喜左衛門井戸」を見る」の節で次のように述べられています。
「非凡を好む人々は、「平易」から生まれてくる美を承認しない。それは消極的に
生れた美に過ぎないという。美を積極的に作ることこそ吾々の務めであると考える
。だが事実は不思議である。如何なる人為から出た茶碗も、この「井戸」を越え得
たものがないではないか。そうして凡ての美しき茶碗は自然に従順だったものの
みである。作為よりも自然が一層驚くべき結果を産む。詳しい人智も自然の叡智
の前にはなお愚だと見える。「平易」の世界から何故美が生れるか、それは畢竟
「自然さ」があるからである。自然なものは健康である。美に色々あろうとも、健康
に勝る美はあり得ない。なぜなら健康は常態だからである。最も自然な姿だから
である。人々はかかる場合を「無事」といい、「無難」といい、「平安」といい、また
「息災」という。禅語にも「至道無難」というが、難なき状態より讃うべきものはな
い。そこには波瀾がないからである。静穏の美こそ最後の美である。『臨済録』
にいう、「無事はこれ貴人、ただ造作することなかれ」(以下略)」
 
 つまり、井戸茶碗が美しいのは無事であるから、自然であるからと述べています。こうし
た自然は造作しないことにあるとし、造作しないということはあれこれと無駄な技巧を凝ら
さないことということと述べています。ヴェロニカさんは「陶芸家は土の声を聞き、土がな
りたいように手伝いをするだけ」とよく口にしています。まさに、柳宗悦の唱える美そのも
のです。ただこうした美はどうも理屈だけでは成しえないようです。つまり頭の中で意識
してあれでもない、これでもないと試行錯誤したところで行きつく美は柳宗悦のいう自然
の美ではないのです。ではこうした自然はどう生まれるのでしょうか。
 柳宗悦とともに民藝運動に関与した人物に濱田庄司という方がいます。彼は陶芸家
でイギリス、沖縄、益子で作陶を行い、のちに人間国宝に認定された人物です。濱田庄
司は「ロクロにまかせて、筆にまかせて、窯にまかせて」作陶を行いました。一見すると
自分は何もしていないのではないかと捉えられますが、これは自分の意識を排除し、
作陶を行うことと捉えられます。まさに自然です。意識を除いて残るのは己の身体です。
つまり、自我をなくし身体のみで器を形作ることが鍵になるのだと思います。
頭を使わず身体を使うとは、どういったことでしょうか。
 ヴェロニカさんと以前白州へ粘土を取りにいったことがあります。そのとき、移植ごてを
使わず素手で粘土の感触を確かめながら採っていたことが印象的でした。こうしたことは
白州に限らず、自分の作品に触れるときも何度も何度も感触を確かめるように手を動かし
ていました。また、別の機会にはヴェロニカさんは何度も粘土を山へ取りに行くなかで身
体で森がおかしくなったとこがわかったとおっしゃていました。つまり、身体の感覚でもの
ごとを捉えることが意識にとらわれないことに繋がるのではないかと考えられます。この
ようにヴェロニカさんは身体を用いるということを日常的に行い、作陶で発揮していること
を理解しました。
 それでは、知識に頼らず、身体のみで作陶することが自然の美に繋がるのでしょうか。
柳宗悦は民藝の美の構造を考えるにあたり、浄土真宗に着眼しています。富山県南砺
市に戦時疎開した棟方志功を柳宗悦が訪ねたとき、作品が大きく変化を遂げていたこと
に驚いたといいます。柳宗悦は、この要因が南砺に浄土真宗の教えが根付いていること
にあると考えました。そしてこの地の精神文化を「土徳」と名付けました。その精神の根
幹は浄土真宗の他力にあると見出し、この他力が棟方志功の作品を大いに飛躍させた
と柳宗悦は考えました。
 他力は他人の力という意でなく阿弥陀如来の本願力という意味を持ちます。これは、
自分でも他人でもなく仏様の力、別の言い方をすれば全く違う何かの力を示します。
つまり、身体の他に知覚ができず、身体の感覚でも捉えられない力をとらえ、力のまま
に作品をつくるという感性が自然の美をつくりだすと考えられます。こうした感性は言
葉で言い表すのは難しい概念かもしれません。ただ、私たちが、原始・古代につくられ
た土器に美を感じるのはこうした感性によって作られたものであるからでないでしょうか。
 縄文土器はおよそ1万年という長い年月をかけて徐々にその形を変えていきました。
それは美をつくりだそうという余計な意識が働かず、あくまで生活に即した形で土器をつ
くっていたからではないでしょうか。むしろ、そういった美を意識したというよりは、縄文土
器は土に願いや想いを込め形作った帰結であると思います。古代においては粘土を採
掘した後から何らかの儀式を行った形跡が確認されています。また、古事記や日本書
紀にはハニヤスという土の神が確認され、こうした土の神は陶磁器生産地の神社に祭
られています。このように原始・古代においては土にある種の畏怖や畏敬の念を抱い
ていたことが考えられます。
 しかし、現代はどうでしょうか。大量消費・大量生産体制で土は単に消費されていくも
のにすぎないのが現状です。ヴェロニカさんはこうした現状を憂いていました。ヴェロニ
カさんは常々、土は生きている。土は自分が必要な分だけ使えば良い。とおっしゃてい
ます。これは原始・古代の人々と共通する想いであり、感覚であるかもしれません。私
はこの言い表しがたい感覚は頭や身体でなく、それらとは別の次元で意識でとらえられ
るものと思います。柳宗悦と同時代、同じく民衆の中に芸術を発見した人物として、『農
民芸術概論綱要』を記した宮沢賢治がいます。本文には「(前略)近代科学の実証と求
道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にな
らないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次
第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか 新たな時
代は世界が一の意識になり生物となる方向にある正しく強く生きるとは銀河系を
自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福
を索ねよう 求道すでに道である」(中略)もとより農民芸術も美を本質とするで
あらうわれらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する「美」の語さへ滅するま
でに それは果なく拡がるであらう 岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ 
農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である そは
直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である そは常に
実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする そは人生と自然とを不断の芸
術写真とし尽くることなき詩歌とし巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へ
る そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで
導かんとするかくてわれらの芸術は新興文化の基礎である(中略)芸術のための
芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する人生のための芸術は青年期にあり 
成年以後に潜在する芸術としての人生は老年期中に完成する その遷移にはそ
の深さと個性が関係するリアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する 
形式主義は正態により標題主義は続感度による 四次感覚は静芸術に流動を容
る 神秘主義は絶えず新たに起るであらう 表現法のいかなる主張も個性の限り
可能である(以下略)

とあります。この文に別次元の感覚を解くヒントがあると考えます。
 本文中の「農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である」、
「四次感覚は静芸術に流動を容る」とあります。この「宇宙感情」、「四次感覚」という言葉
が別次元の感覚でないかと私は考えました。「四次感覚」とは三次元を超越した別軸に
おける感覚をいい、これは「宇宙感情」という言葉に言い換えられていると考えられます。
「宇宙感情」により地人と通づるとは、言葉で表現することは非常に難しい概念ですが、
宮沢賢治はより具体的に「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行く」と示して
います。私たちの肉体をなす塵は宇宙からもたらされました。それも気が遠くなるよう
な年月をかけて原始の星々が輝き続けようとあがいた末に数々の元素が生まれ、地球
を構成する大本をつくって、その地球から私たちが生まれました。あの冷たい宇宙空間
も星々もそして地球も私たちの遠い祖先といえるでしょう。こうした宇宙、銀河を私たちの
中にもつというのは宇宙と私たちのつながりを自覚するということと考えます。宇宙の何
と繋がっているかといえば、それは生命そのものでしょう。宇宙、銀河、地球、そして私
たち人間のあらゆる生命は銀河のようなうねりのなかで互いに繋がっているのでしょう。
つまり他力を感じ取る感覚というのは生命のつながりを感じ取る感覚と言い換えることが
できるかもしれません。
 ここまで柳宗悦の唱える美についてみてきました。柳宗悦のいう自然の美とは身体感覚
と生命のつながりの感覚が大きな要因にあると考えました。ただ、こうした美は現代の市
場の流れを汲まないものでしょう。現代の窯業はほとんどが機械化され、大量生産が可
能になりました。器は私たちの生活になくてはならないものですし、そうした大量生産体
制が生活を支えているのが実状です。しかし、こうした器とその美について考えると現代
における器は何か大切なものを失った破片の一部に外ならないのではないでしょうか。
土や火、窯に畏敬の念を忘れてそれらを材料や道具としてみなしたとき利便性や生産性
が追求され、器に美は宿らず、使う者の心に何らかの響きを与えなくなるのではないでし
ょうか。こんなことを考えているときにヴェロニカさんが前に話してくれたお話を思い出し
ました。
 ヴェロニカさんが大地窯を開いて間もない頃、知人の女性とその息子さんが家を訪れ
たといいます。知人の女性はヴェロニカさんが上野原市に引っ越してからの古い知り合
いだったといいます。しかし大地窯を訪れた時は認知症になってしまい昔の面影はなか
ったと話していました。
 ヴェロニカさんは二人に自分の窯で焼いた器に茶を注いで出したといいます。そして、
知人が器に口をつけお茶を飲んだとき知人は涙を流して喜んだそうです。ただそのとき
話している内容は支離滅裂で一体何に喜んでいるか、ヴェロニカさんはその時わから
なかったといいます。その後知人女性は亡くなり、この出来事はヴェロニカさんの頭の
中にずっと引っ掛かっていたそうです。私もその話を聞く限り茶の味がおいしかった位
しか想像できませんでした。そして、この話を聞いて半年くらいが経った頃ヴェロニカさ
んから電話をもらいました。なぜ彼女が涙を流したのかようやく分かった気がすると電
話の向こうで話をしていました。
「彼女は介護施設に入居していた。そこでの器はプラスチックだった。」
そこまで聞いて目が覚める思いがしました。プラスチックは安くて丈夫で加工しやすい
です。しかし、お湯を入れた時の手へ伝わる温かかみは、手触りは、唇をつけたときの
感触は、茶の啜る時の器の香りはどんなものでしょうか。これは容易に想像できます。
この話はヴェロニカさんと私の推測の域をでませんが、非常に象徴的な話でした。
 以前、このブログでも書かせていただいた4年前にヴェロニカさんが縄文土器を見
にいらしたときのことを思い出しました。あのときヴェロニカさんが「間違っていなかっ
た」とおっしゃったのは身体感覚と生命のつながりの感覚から生まれる作陶が縄文時
代を生きた人々の技術と合致したからではないかと考えました。そうした実践の積み
重ねからヴェロニカさんの器は自然の美を宿していると私は考えます。ヴェロニカさ
んは究極的には地面の土を掬って、その土そのもので水が飲めるようなそういった感
覚の器をつくりたいとおっしゃっていました。もはや自我を完全に取り去った土にまか
せた器づくりといえるでしょう。最近、土の声は私たちにもきくことができるものだと分
かりました。それは、耳を澄ましても聞くことができるものでなく、身体の感覚と生命の
つながりの中で感じることできるものと考えます。ヴェロニカさんは土の声を形にする
ことで、溢れる土の声を私たちにも分かる形にして表現しているのではないかと考え
るようになりました。
 ヴェロニカさんは焼き締めの湯呑でお茶を飲むと茶の香りと土の香りがよく合い、私た
ちに平和を運び自然に目を向ける時間をくれると述べております。つまり、器は自然と自
分をつなぐ橋渡しをしているのです。自然を眺めた時、心に響くあらゆる想いが土の声な
のかもしれません。大地窯の器のつながりの中にヴェロニカさんと柳宗悦と大地窯のみ
なさん、そして私もその中にいるのだと感じると不思議と安堵感に包まれます。器の紡ぐ
つながりの広がりがどんな世界を切り開いていくか今から楽しみです。
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by masa
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by oochigama | 2010-08-23 23:24 | 大地窯とは